リリース準備も完了
今は、macOS用ネイティブ版AGMPlayerの開発フェーズで、初版は完成済みなのだが、そのリリース前に関連既存ソフトの修正版を出す。残す所はWindows版AG-ムービーカッターとAGMPlayerのみで、Update3として明日にはリリースする。
Update3は今日リリースしようかとも思っていたのだが、昨日書いた様に、今回はリリース前評価を少し真面目にやった結果、不具合が何個か見つかったので、リリースは明日に順延する事になった。
と、言う事で、数日前に書いた様に、作者的には、今はNetflixに契約しているので、リリース前評価なんかは、動画を流し見しながら行なっていた。
しかし、何度か書いた様に、作業中に流す動画というのは、初見のモノだと、そちらに注意が行ってしまうので、作者的には、こういう場合に見る動画は見慣れたモノにしている。
なので、今日は、作者的には、あまり好きではないのだが、久しぶりに「バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2」なんかも、見たりしていた訳だ。
で、作者は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は嫌いなのか、というと、そんな事はなくて、「バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3」は、結構、好きなので、何度も見てきている。
にも関わらず、PART2が好きではないのは、映像的にも、プロット的にも、雰囲気が暗いから、なのだが、PART2は、その舞台が2015年だから、というのもあるかもしれない。
つまり、PART3の舞台は西部開拓時代のアメリカなので、作者的には、純粋な娯楽映画として見れるのだが、PART2の舞台は、作者的にも無関係な世界ではないので、現実を引きずってしまう分、楽しめないのかもしれない訳だ。
もっとも、過去に書いた事がある筈なのだが、作者的には、純粋なファンタジー作品には、生理的な拒否反応が出るので、映画なんかの作品は、非現実的であればあるほど良いのか、というと、そういう訳でもない。
と、言う事で、作者的な好みも、中々、複雑な感じではあるのだが、実際の所としては、こういった傾向は、日本人全般に、普遍的にありそうな気がしている今日この頃だ。
ちなみに、何故、作者的な好みと同様の傾向が日本人全般に普遍的にありそうだと思っているのかというと、大昔の商業SF小説なんかに、その影響があるからだ。
つまり、大昔、半村良氏が「石の血脈」なんて小説を書いていた頃には、まだまだ、世の中的にはSFなんてモノはマイナーな存在だったので、その本筋にイキナリ入ってしまうと、読者が着いて行けなかった。
なので、その導入部は至って普通な日常世界から始まっているのだが、同様の傾向は、今は亡き平井和正氏の「幻魔大戦」シリーズなんかにもあって、その内容を真面目に鑑みれば、それらはトンデモナイ非現実的な話を扱っているのだが、そのプロットの描写は、普通に、現実的だったりした訳だ。
上記の様な傾向は、平成のジブリ映画なんかにも引き継がれていて、最も観客動員数が多かった筈の「千と千尋の神隠し」なんかでも、その本筋はとんでもない異世界の話になっているのだが、その導入部は、至極普通の日常世界になっている。
更に、まだ未完で現在進行中のエヴァンゲリオンについても、この傾向は更に極端になっていて、本筋はトンデモナイ話であるにも関わらず、描かれている世界の多くは至極普通の日常世界で、「今日の日はさようなら」だとか「翼をください」みたいな、今時の学校の教科書に出てくる様な、スタンダードな歌まで流されている訳だ。
と、言う事で、商業小説だとか映画では、現実では面白くないので非現実が描かれる事が多いのだが、その非現実をいきなり描いてしまうと、お客が着いてこれない可能性が高いので、少なくとも、その導入部には現実を使う、みたいな手法は、「石の血脈」が1971年に出版された小説である事を鑑みれば、もう、50年近く前から存在している感じだ。
もっとも、「ウルトラQ」は1966年だし、米国の「トワイライトゾーン」は1959年である事を鑑みれば、人類の文明は進歩しているんだろうか? と、思ったりもしてしまう今日この頃だ。